昭和52年08月26日 朝の御理解



 御理解 第34節
 「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。有り難く受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」

 昨日はもう恒例になりました合楽祭りが、本当に緊張したと申しましょうか、雰囲気の中にあの様に華やかに、そして華麗にえんしゅつされた。今までにかってなかった様なスムーズさとでも申しましょうか、合楽祭りが行われました。ちょうどかえしの御祈念をさして貰うちょっと前に、新館ホールの方で丸少の方達が、皆で一生懸命御祈念を始めました。お湿りがパラパラありだして、大分ひどくお湿りの音を聞きながら、御祈念をさして頂いたんですけれども。
 ああお天気の事を皆が一生懸命お願いしよるなと思いまして、これは愈々お天気のおかげを受けなければいけないなと、まあ思った訳です。昨日久留米の稲垣さんが本当に神様の働きには恐れ入りますと。何時もの事ながら天地が自由になるとおおせられるが、今度九州この辺りを襲う筈であった台風が、今までかってない所で分岐して、かってないところに上陸して、台風が外れてしまったということをテレビで見られて、そのお礼のお届けが御座いました。恐れ入ります。
 ところが御承知の様に昨日は朝からあんなお湿りでした。丁度準備をなさるその間はお天気のおかげ。まあ曇の中にまあいうなら暑くもあんまりない中に、いろんな舞台装置とか、様々な準備が進められました。そして愈々始まるごとなったら、またお湿りがありだしたのですからね。それで私ここで御祈念を終わって、まだ降ってます。神様にお願いさして頂いたら、「今治水」ということを頂くんです。今治水というのは何かこう皮膚病の薬ですよね。今治る水と書いてあるでしょう。
 ああこれはすぐおかげを頂くなと、思いましたから、私はすぐ一番に外へ出ましたら、まだお湿りがあっているんです。けどもあっているというのか、降り止んだというのは一緒でした。それで私はそのままあちらに私の席が取ってある所へやらせて頂きまして、皆が心配して傘を持って来て下さったけれども、結局傘を使う事もなしに、しかも終わるまで雨が降りませんで、おかげを頂きましたです。
 そしてまあ色々分らせて頂く事ですけれども、以前は丸少の方達が、夏休みの明けに最後の何か集いをやっておりました。その丸少の集いに御信者の各界の方達がそれに特別出演やらをして、花を添えておった訳ですけれども折角こんなにして、合楽教会の全信徒の方達が奉賛するなら、是はもう一層丸少というのでなくて、合楽祭りにしたらどうかという話が出来て、確か去年からですか、合楽教会の年中行事の一つとして、合楽祭りが行われる様になりました。
 去年も覚えておいででしょうけれども、私が表に出るまでは降ってました。表に出ると同時にお湿りが上がっておかげを頂いた。しかも一年後の昨夜もその通りの事であった。神様の一分一厘間違いない事だなあと、私は思わせて頂いてまあ昨日の、本当にそれこそ婦人部の方達の華やかな手踊りから、青年部の方達が女子青年部の方達が、そして丸少の方達の演技というかあれだけの準備が出来て、ためには随分矢張り合楽祭り、合楽祭りというための稽古をされた事であろう。
 取分け私が目を見張ったのは、丸少のバンドの上達です。もうこれには私は驚いてしまいました。しかもあんな一つの楽器が手に入ると、あんなに簡単に出来るものかと思った事は、先日からの御理解の中に愛国行進曲の御理解がありましたから、それをほんのちょっとの時間であれを十分吹きこなしたと申しましょうかね。私は本当に驚いてしまいました。これは愛国行進曲じゃなくて愛教行進曲だなあ、合楽行進曲というても良いなあとさえ思った位でした。
 もうそういう全ての点に、今までかってない行き届いたスムーズな演出がなされておる合楽祭りを、只合楽祭りというて子供連れで涼みがてらに遊びがてらの、例えば夕涼みがてらの固くならずに皆さんどうぞ、浴衣がけでという呼び掛けでしたから。ですけれども合楽で行われる限り、これは深い御神意が必ずある事だと言う事なんです。それにはねそういう催しがあるのに、あの様に緊張した雰囲気を神様が作んなさると言う事。それは一度も口には言わんけれども。
 どうぞ今晩の、折角あれだけの準備をして御座いますから、朝のお湿りの時には、私は朝のお湿りの時にお願いをさして頂きましたら。「波多野京さんが、もうそれこそこんな美しい笑顔を見た事がないと言う様な顔で、神様にお礼をなさっておられる」所を頂いたんです。波多野と言う事は、波が多いと書いてあります。京と言う事は、まあおかげと言う事でしょうね。ああおかげを頂くなとは思うておりましたけれども、なら実際掛かるという時間になったら降り出したんですから。
 しかも丸少がじっとしておられないと言うので、皆で勢祈念を新館で始めました。これは本当におかげを受けなければいけないなと思ってね。そして御祈念を終わっても降ってます。そこで私が一番に立って、脇殿に出たら降ってますから、天地に向かって御祈念を心中祈念をさして頂いて、それはもう終わらない内にお湿りが止みました。皆さんが傘の準備をなさっておられましたけれども、それこそ傘を差す事もなしに、スムーズにそれが出来たと言う事が、只本当におかげを頂いた。
 何時もの事ながら間違いがないなというだけではなくて、その間違いのない神様のお働きが、あの様な合楽祭りと言う事になっておるのですから。その間違いのないその働きの中に私共が参画させて貰うと言う事がおかげなんです。合楽の場合はもう絶対にそうです。そりゃもう子供達の遊びのごたる事じゃから、それには成程それこそくだけた年寄りも子供達も、日頃は参らない隣近所の人達も誘うて合楽祭りに参画する訳ですけれども、私は今日の御理解を頂いて改めて思うのです。
 神の言う事を聞かんと言う事出す。是は私が始めた事でもなからなければ、何時の間にか去年はそういう、是は合楽教会挙げての一つの行事にしたらどうかと言う事が取決められたと言う事は、合楽での催しであり行事であると言う事は、天地の親神様がそこに何かの御神慮があっての事であると言う事であります。そこで皆さんに呼び掛けて、何時いつは合楽祭りですから、どうぞ皆さん出て来て下さい。
 勿論あの素人ばかりでする事ですけれども、まあ本当に納涼というか、合楽まつりに相応しい出し物で、しかも言うならば見られる演技でしたね、皆さんの演技はね。そりゃ成程華やかに又は華麗に又は面白う、おかしうと言う所で御座今したがです。そういう気楽な中におかげの頂けれる元が、もしひそめられてあるとするなら、これは由々しき事だということです。只おろそかには出来ない。
 朝の御祈念には参るばってん、合楽祭りには参らん、行かんと言った様な事ではなくて、合楽が挙げて、このお祭りに参画すると言う事は、御神意に添う事になり、言うならば神のいうことを聞くと言う事になるのじゃないでしょうかね。これは来年はこの事をよく皆に徹底して、いうなら年に一回の初めてのこういう集いですから、それをもっと皆が大事にする様な中に、合楽祭りが行われる様になったら、恐らくは神様が緊張しきった、ひやひやする様な、言うならばサア今までお湿りがあったがどうなるか。
 もう新館の方ででもしなけりゃならんじゃろうかと言った様な、いわば緊張した、まあ不安な事はなくなると思いました。去年がそうであった今年がそうであった。だからこの事、皆さんに聞いて頂いとる様な事の内容が分かって、それに参画さして貰うという気持ちが、これも神の言われる事の、神様の言われる事には自分の都合の良い事だけじゃないと言う事。これはまあ去年の事でしたけれども。
 合楽まつりの時に、久富先生やら繁雄さんやら、まあ私だん手踊りやらあげな事した事なかけんで、このままよかろうと、そげな事があるもんかい、もう皆が浴衣がけと言いよるから浴衣がけに着てから。それこそ祭り気分を皆が盛り上げる為にも、浴衣がけで来なさいと私が、申しました事でしたから。もう皆が浴衣がけで、言うならば夏の夜の一時を、ああいうふうに面白うおかしう楽しませて頂くという雰囲気に合った様な心持ちをもって参画する。そこから合楽全体の信者、信奉者がです。
 言うなら何というでしょうかね、心が一つになるというかね、一緒に腹を抱えて笑わせて頂く様な、その情景というものを神様がご覧になって、どんなにか喜ばれる。それこそ微笑ましい事だと神様はお思いになるだろう。いや外にもっと深い意味が必ずある。それは分からんにしてもです。神の言う事に背かぬ様に、神の言う事を、言うならば教えを頂いて帰ると言う事は難しいにしても、合楽祭りに出る位な事は楽しんで、子供達でも女子供でも、ならそれに参画する事が出来る。
 しかも今日申します様な深い御神慮のある事であるとするなら、その事が神様のいうことを聞く事になり、今日は本当に一晩楽しかった、面白かったというだけで、私は神様の願いが成就する事になるのだと言うふうに思うんです。「ここへ参っても神の言う通りにする者が少ない」と、こう言っておられるね。ここへ参っても神の言う通りと言う事は、なら打って一丸になっての行事と言った様な事は、なおさら神様が、私共一人一人が大事にしなければならないと言う事が分かりますですね。
 しかもそんな飲んだり、食ったり又はそのしかとうもない芸を見たりと言う様に、簡単にあしらったり、それを軽く見る様な事のないおかげ、私はこう言う事からですね。神のいうことを聞く事に、お互いがならせて頂いたら、もしそう言う事になったら、来年からお湿りやら風やらにひやひやする事のない様なおかげが頂けれる。去年も今年も同じ様な事であったけれども。神様の寸分間違いのない働き、本当に今治水である今まで降りよったんだ、今までね私が脇殿の外の所に出た時までは降りよったんだもの。
 それを天地を仰いで「生神金光大神様天地金乃神様」と念じ終わるか終わらない内に、降り止んどるのだもんね。今治水それが只、神様の働きの素晴らしいと言う事」を分かるだけでなくて、私共の神様が何を分からせようとして、わざわざ去年も雨が半ばで止むという様な、今年も同じ様な事が続くのか。合楽の信者信奉者これは私を初め、矢張り軽く見ておったと思いますね。
私もそげん力を入れんでんよかと、別にその重きを置いてなかった事も、これは私が言うならば神の言う事を心から聞いてなかった事になりますから、信者の皆さんが聞いたり、聞かなかったりする人があるのも当然の事だと。または総代だから幹部だから、まあ教会行事だからと、努めて出て来ると言った様な人もありましたでしょうが。そうではないそれこそ喜々として、その催しに集わせて頂くと言った様な、神様のお言葉なのだから、神様が言うて御座る事なのだから。
 と言う様な気持ちで参加させて頂いたらね、それこそ天気の上にも、誰でもが安心の出来れるお繰合わせの中に、開く事が出来る様に必ずなると言うふうに私は思いました。神の言う事が、この様な簡単な事で聞く事になるとするなら、有難い事ではないでしょうか。「有難く頂いて帰れば、おかげは車にも船にも積めぬ程の神徳がある。心の内を改める事が第一なり」とあります。
 だからそういう軽々しい思い方を、ああ本当に、合楽で何かが合楽を中心にしてあるという時には、どうでもお互いが奉賛させて貰わにゃいけないという思いをする事が、心の内を改めた事になるのじゃないでしょうか。今まで軽く見ておった事を軽く見らない。もうこれは合楽である事は、もう絶対神様の深い深い御神慮の中にあることだから、それが踊ったり跳ねたり食べたり飲んだりする事であっても。
 合楽を中心にして行われる限り、そういう深い御神慮がある事だから、これからは改めよう。いわゆる「心の内を改める事が第一なり」。まあ一年後に仕えられる合楽祭りの事だけの事ではありません。もう一事が万事に神の言う事を聞く姿勢を取らせて頂く事が、また取らなければならないと言う事がね、信心であると思いますしそれがいうならば、思いが変えられる事ですから、改まる事になるのじゃないでしょうかね。
 それにはやっぱり合楽がいうならばある意味で慕わしうして慕わしうしてたまらん、いうならば合楽が何とはなしに、自分の心の故郷の様に慕わしうてこたえんと言う様な情念が第一いるんじゃないでしょうかね。昨日は宮崎からも鹿児島からも、又は伊万里辺りからも、昨日のお祭りに参加しとられます。たったあれだけの事に、言うならばわざわざ鹿児島から来ると。
 別に私の話が聞けると言った様な事でもないのだけれども、とにかく合楽へ合楽へという、その思いが高まれなければ出来る事じゃありません。まして近くに住んどります皆さんの場合なんか、もう合楽で何かがある日には、もう絶対のものとしてです、皆さんが出らなきゃならんと、心の内を改めなさると言う事を、去年、今年の合楽まつりで神様が教えておられる様に思います。これは大変な事を教えて頂いた事になります。
   どうぞ。